「悪いこと」と解釈するのは誰?
お気づきになった人もいるかもしれませんが、トップページに「続きはこちら」をつくったのでスッキリと見やすくなりました。
それから、記事も増えてきたので「人気記事」のアーカイブもつくりました。
たくさんの記事を読めるように、見やすくしました。
こうして常に改善していくブログページにしていきますね。
さて、昨日に引き続き「羅生門」から得た問いです。
「悪いことをした人に、悪いことをしても許されるのか?」
あなたはどう考えられましたか?
「悪いこと」とは相対的なものという印象があります。
相対的(そうたいてき)とは、その時々で変わる基準によって評価されるということ。
つまり「悪いこと」は、人の受けとり方しだいで良くも悪くもなるのかなと思います。
また質問に戻りますね。
「悪いことをした人に、悪いことをしても許されるのか?」
私の場合、この言葉を聞いてすぐに出てきたイメージが、ネットの書き込みでした。
有名人がトラブルや事件を起こすと、自由に書き込まれます。
批判などはあって仕方がないことでしょうが、行き過ぎているような発言をしている人もいると思います。
「だって悪いことをしたんだから、何されても仕方ないでしょ。」と思われて根拠のない書き込みや、ひどい書き込みをしているのかもしれません。
ストレス発散になると思って標的にしているかもしれません。
ちなみにこの場合、ストレスが発散できたと錯覚しているだけで、余計にストレスがたまってしまう行為をしています。
もし、悪いことは相対的なものだとしたら、悪いことは人の受けとり方しだいで良くも悪くもなるのかなと思います。
人の受けとり方しだいで良く悪くもなるのでしたら、下のように悪いことをした人にの部分をカッコを書き省略してみます。
(悪いことをした人に、)悪いことをしても許されるのか?
すると、「悪いことをしても許されるのか?」になります。
「悪いことをした人に、悪いことをしても許されるのか?」では、悪いことをした人が悪いので別に悪いことをしてもいい、と答える人がいるとします。
でも同じ人にカッコ部分を省略した質問をした場合、「悪いことをしても許されるのか?」となります。
この場合、許されないと答えられるかもしれません。
つまり「悪いこと」と決めつけた場合と、決めつけなかった場合とで答えが異なるということです。
もし善悪を決めつけずに、多角的な視野をもって世の中を見ることができたのなら、反応的な生き方ではなく、主体的な生き方をされているかもしれません。
反応的、主体的の話は後日たっぷりと記事にしますね。
今日は私の考察した内容をシェアさせてもらいました。
できれば人の意見や考えを批判せずに、「私にとって、気づきになること、プラスになることは何だろう?」という姿勢で受け止めてくれたら、このブログの趣旨とマッチしています。
そしてあなたの考察の内容を、大切にしてくださいね。
ではまた明日
「悪いこと」は相対的なもの。
つまり、人の受けとり方しだいで良くも悪くもなる。
善悪を決めつけずに、多角的な視野をもって世の中をみる。